2012年4月30日月曜日

いわき市で子ども健康相談会を開催


 「子ども健康相談会」が428日(土)、CRMS(市民放射能測定所)と「子どもたちを放射能から守る全国ネットワーク・福島支援ワーキングチーム」の主催により、いわき市久ノ浜地区で行われた。この健康相談会は、放射線による健康被害を心配する保護者を対象に開かれたもので、12組の家族が参加した。

 会場となった久ノ浜地区は、津波でも大きな被害を受けた沿岸部の街で、原発から約30㎞の地点。
「いわきは線量が低くて安全だとアナウンスされていますが、原発事故直後、濃い放射性プルームが通過したんです。それに、久ノ浜の付近にはホットスポットがたくさんあり、10マイクロシーベルト超える場所もあるんですよ」と話すのは、子ども健康相談会のコーディネートをしてくれた、いわき市在住の新妻邦嗣さんだ。

 彼の言葉どおり、この日訪れた相談者の中には、「家の中が0.6マイクロシーベルトもあって外より線量が高い。小学生の子どもがいるのだが、このまま住み続けてよいのか心配だ」と話す方もいた。
 そのほか、「食べものには気を付けているのに、子どもの尿からセシウムが出た」「子どもが付けていたフィルムバッチの値が高かった」「祖父母が作った野菜を持ってくるのだが、子どもに食べさせて大丈夫だろうか」といった悩みも聞こえてきた。

 今回、父母たちの相談にのるために、ボランティアで東京から駆けつけた医師は、相談会終了後、次のように感想を述べた。
 「母親は、心底子どものことを心配している。ちゃんと子どもを守れていないんじゃないかと自分を責めている母親も多い。また、誰にも相談できずひとりで悩みを抱え込んでいる方も多く、話を始めると、みな一様にポロポロと涙を流していたのが印象的だった」

 孤独に戦っている母親の気持ちを思うと辛い。
 しかし、医師が相談者の言葉にじっくりと耳を傾け、「最大限に防御しつつも、ナーバスになりすぎず明るく戦っていこう」と声をかけると、母親たちの表情も和らいだ。
 また会場には、いわき市内で子どもたちを守る活動を続ける「母笑みネット」のお母さんや、地域の小学校の教師も手伝いに駆けつけ、相談者に「これからは地域でつながっていこう」と声をかけた。

 私自身がこの相談会を通して感じたことは、「放射能が怖い」とか「心配だ」という感情を、素直に口にすることを許さないゆがんだ社会の有様だ。
 「原発がすぐそこにあること」「今もなお事故は収束していないこと」「平常時と比べて放射線量が高いこと」などを考えると、不安を感じて当然だ。“復興”という名の下に、母親たちのこうした不安な気持ちが押し殺されることのないように――。そういった意味でも今後、こうした健康相談会を継続的に開いていく意味は大きいのではないだろうか。





2012年2月9日木曜日

「団結して子どもを守ろう!」 南相馬市の“ぬまゆ”さんが本当に訴えたいこと

 「今日、ここにいる人たちで団結し、子どもたちを守りましょう!」“ぬまゆ”さんこと沼内恵美子さん(42歳)は1月28日(土)、南相馬市原町地区で開かれた野呂美加さん[*1](NPO法人チェルノブイリへのかけはし代表)のお話会終了後、そう呼びかけながら来場者ひとりひとりに名刺を配っていた。


■ブログを始めた理由は、子どもたちを守りたかったから

 “ぬまゆ”さんをご存じない方のために説明をしておくと、“ぬまゆ”こと沼内恵美子さんは南相馬市で塾を経営している先生だ。昨年8月からご自身で書き始めた「ぬまゆのブログ」の中で、脱毛、下痢、水疱、アゴ痛、歯が抜ける、血が止まりにくい、体がだるい……といった自らの身に起こっている原因不明の症状をつづったことがキッカケで、「被ばくの症状ではないか」と一部で憶測を呼び、インターネットで話題となった。

 フリージャーナリストの岩上安身さんも、ぬまゆさんを取材されていたので、ご覧になった方も多いだろう。(


 しかし、こうした症状を発表したために、「風評被害を生む」「南相馬の復興の妨げになる」などと誹謗中傷されることも少なくなかったという。

 それ以来、体調に関してばかりクローズアップされている彼女だが、じつはブログを書き始めた本当の理由は、健康被害を訴えたかったからではなく、「子どもたちを守りたかったから」なのだという。今回、“ぬまゆ”さんが南相馬市で開かれた野呂美加さんのお話会を訪れ、終了後に参加者に訴えかけた内容を以下にご紹介する。

■学校は子どもを守ってくれない

 私は、「ぬまゆのブログ」を書いております、沼内恵美子と申します。今日、野呂さんもお話されていましたが、今私に現れている症状は“ぶらぶら病” [*2]とそっくりです。

 正直言って、今こうして2時間以上座ってお話を聞いていることも辛く、途中で退席しようかと何度も思ったほど体がだるいのです。でも、昨年の8月まではすごく元気だったのですよ。夏以降です、異変が起きたのは。水のような下痢、脱毛、手足にできた水疱、アゴの痛み、手のしびれなど原因不明の症状が現れ、虫歯でもない健康な歯が、根本からグンニャリととれてしまう、という不可解なことも起こりました。痛みを我慢できずに抜いてもらった歯も含めると、すでに8本も歯が抜けてしまっております。

 頭髪も、驚くほど薄くなりました。ロングヘアーだったんですが、ハゲが目立つのがイヤで五分刈りにしたんです。今日はウィッグを着けていますが、とってみましょうか?(ぬまゆさんはウィッグをとって)ほら、ここお分かりになりますか。 ハゲているでしょう?

 私はまだ42歳です。普通、こんなふうにはなりませんでしょう? ストレスじゃないかと言う方もいます。しかし、以前私は高校の教師をしていましたが、その頃に比べたら、震災後のストレスなんてゼロも同然ですよ。私はもともと体が丈夫で、ちょっとしたことで風邪なんかひかなかったし、歯も頑丈でした。私は、自分の身に起きている体調の異変を、すべて放射能のせいにするつもりはありません。おそらく原因の特定もできないでしょう。今は信頼できるホームドクターにかかっていますし、定期的に血液検査をするなどして経過を観察するしかないのです。私はあと80年生きるつもりですが、私が死んだあと、遺体の解剖をしたときに明らかになればいい。そう思っています。

 みなさんは、「最近、疲れやすいな」と思うことはありませんか? 風邪かな、更年期かな、ストレスかな、と見過ごしがちですが、今私たちが浴びている放射能の線量は、野呂さんがおっしゃったように「チェルノブイリでは廃村」になったレベルの放射能なんです。大人はまだいい。でも放射能の影響を受けやすい子どもたちは、あらゆるリスクから守らねばなりません。そのためには保護者が声をあげないといけないんです。

 私は18年間、高校の教師をしておりました。なぜ辞めたかというと、学校にいると本気で子どもを守れないと思ったからです。学校にいる限り、上の命令通りに動かなければなりません。ちょっとでも反論すると、私のように学校からはじき出されてしまいますから。縦割り社会の弊害です。現に今だって、自分の子どもは県外に逃がしている先生が多いけど、生徒たちには放射能の危険性を訴えることもできないわけでしょう。辛いですよね。

 残念ながら、私が18年間見てきた学校の現実はそうでした。だから私は、3年前に学校を辞めて、自分で塾を開くことにしたんです。それなら、誰に文句を言われることもなく、存分に子どもに愛情を注げますから。私はこの場をかりて、保護者の方に申し上げたいのです。「声をあげて、子どもを守ってください」と。残念ですが、学校にだけ任せていたのでは、子どもを守りきれませんよ。

 例えば、学校給食ひとつとってもそうです。みなさん、福島の学校給食に、どんな食材が使われているかご存じですか? 私のブログに、福島のある学校で給食部長を務める方が書き込みをしてくれました。「ろくに測定もしていない福島の食材が、学校給食で使われています」と――。こんな現実があっていいのでしょうか? 子どもたちの内部被ばくを防ぐためには、せめて学校給食だけでも、遠方から取り寄せた野菜を使ってもらいたい。いくら家庭で親が気を配っていても、学校がこのようなことをしていたら元も子もありません。だから、どうかお母さん、お父さん、「学校のやっていることは正しい」と、うのみにしないでください。学校で一番力を持っているのは、保護者のみなさんですよ。先生でも校長でもありません。おかしな先生がいたら罷免することもできるんです。

 だから今、私たちが団結して、子どもたちを守りましょう。声をあげましょう。やってできないことはありません。福島県内の学校では、牛乳を飲むことを拒否した子どもが、教員から「おまえは福島県民じゃない」と言われたという話も聞こえてきます。こんなことを容認してはいけません。

■経済第一、命は後回し

 “ぬまゆ”さんがこう呼びかけたことで、最後まで会場に残っていた参加者約15名も、それぞれ重い口を開き始めた。
 「小学生の孫が心配」と話すある女性は、「一刻も早く福島を離れたい」という実の娘と、「経済的に困窮するより福島に残ったほうがいい」という娘婿の間で板挟みとなり、悩み続けていることを吐露してくれた。また、「小学生の娘がいる」という母親は、「給食で出る牛乳は本当に飲ませても大丈夫なのか」「ホールボディカウンターで計測してほしいが、市から台数が足りないと言われてまだ計測できていない」といった心配ごとを、せきを切ったように話してくれた。じつは南相馬市をはじめ福島県下では、放射能に対する不安があっても、声を出せない雰囲気があるのだ。だから参加者のみなさんは、抱えていた思いをやっとこの場で話せたのだろう。

 今回、お話会のコーディネートをした南相馬市在住の佐藤晃一さんは、お話会の開催にあたり「公共の施設を借りようと思ったが、どこも貸してくれなかった」と話す。
 なぜなら南相馬市は、避難した人たちを戻すことに必死で、帰還の妨げになるような講演会には場所を貸してくれないからだ。そのため今回は、佐藤さんが経営する託児所が会場となった。「妨害が入るかもしれない」とのことで、開催場所は一切公開せず、申し込みのあった人にのみ会場を教えるという警戒ぶり。「経済第一で人命は後回し。町全体がそんな雰囲気なので、みんな不安があっても口をつぐんでいます」と、佐藤さんは語った。

 また、参加者のひとりで、市民団体「安心安全プロジェクト」の代表を務める吉田邦博さんは、次のように吐き捨てた。「南相馬で避難・保養を訴え続けているのはうちの団体くらいですよ。他はすべて除染・復興モード一色。僕らのほうが間違っているのかと思って、気持ちが暗くなります」

■声を上げて権利を勝ち取る覚悟を
 こんなふうに話す参加者に対して、野呂さんは最後にこう訴えかけた。「みなさんはその不安や不満を市町村にぶつけていいんですよ。いろいろ文句を言ってくる人がいるだろうけど、そんな人はほうっておけばいい。チェルノブイリだって、最初の一年間は除染をしていましたが、数値は下がらないし除染に動員された市民たちが次々と亡くなったので、除染してもムダだということになった。それですぐやめたんです。それよりも、移住の権利をきっちり獲得し、移住しない人は定期的にホールボディカウンターの測定を受けて、数値が高ければ保養に出してもらわないといけない。そういったことを、みなさん自身が市町村と交渉し、権利を勝ち取っていかなくちゃならないんですよ」

 “ぬまゆ”さんは野呂さんからのメッセージを聞き、「ここ南相馬から声をあげていきたい」と感想を述べた。さらに“ぬまゆ”さんは、福島に住む子どもたちの複雑な胸のうちも、次のように代弁してくれた。
 「私の塾には、いまだ子どもたちが10人も通っています。できれば早く避難してほしい。でも非常に難しい状態です。うちの塾に通っている中高校生たちは、『結婚しても子どもは産まない』とか、『福島県人以外とは結婚できない』と言っています。福島から出るのが怖い、出たくない、とも……。人間不信になっているんでしょうね。どこか人生を諦めてしまったようなところがあるんです」

 “ぬまゆ”さんの塾に通う、あるひとりの中学生は、いったん他県に転校したそうだが、数ヶ月で福島に戻ってきたのだという。その理由は、「福島の人は可哀想」という同情的な目で見られることに耐えられなかったからだ。「決していじめられたわけではないんです。とても良くしてもらったと本人も言っていました。でも多感な年頃ですから、特別な目で見られることがイヤなんでしょう。彼らが福島を出るまでには、とても高いハードルがあるように思えます」と“ぬまゆ”さんは話す。

 こうした閉塞的な状況を打破するには、福島の方自らが声をあげることはもちろん、他県の人たちも“他人事”ではなく“自分事”として考えていく必要があるだろう。こうしたお話会の取り組みが、両者の間をつなぐ第一歩になることを願わずにはいられない。


[*1]野呂美加さん……NPO法人チェルノブイリへのかけはし代表。1992年より、チェルノブイリ原発事故で健康被害を受けた子どもたちを日本に受け入れ、“転地療養”を行ってきた。3.11以降は、これまでの経験をもとに全国各地を講演にまわり、放射能の影響を心配する母親たちにレクチャーを行っている。

[*2]ぶらぶら病……原爆で内部被ばくした被害者に現れた症状。体がだるい、集中力が続かず仕事ができないなどの状態になり、日常生活を送るのにも苦労した。血液検査などに以上は現れず、周囲からは怠け者扱いされた。

2012年1月30日月曜日

市民と科学者の内部被爆問題研究会発足 ~最後の被爆医師・肥田舜太郎氏の話~


「市民と科学者の内部被爆問題研究会」が127日(金)に発足し、都内で記者会見が行われた。呼びかけ人は、広島・長崎の原爆被害を長年追求してきた医師や研究者、ジャーナリスト、市民など26人。(20111220日現在)
この日の記者会見では、澤田昭二氏(素粒子物理学者・被爆者)、松井英介氏(医師・放射線医学・呼吸器病学)、矢ヶ崎克馬氏(物性物理学)、そして肥田舜太郎氏(被爆医師)など、3.11以降、市民の立場に立って内部被爆の危険性と身を守る方法を訴え続けてきた専門家らが登壇し、「年間1mSv以上の地域に在住する子どもを即刻集団疎開させるべき」といった、内部被爆の拡大と健康被害を防ぐために政府がとるべき安全対策を提言した。


 なかでも、自ら被爆者であり、戦後60年以上にわたって被爆者を診つづけてきた医師の肥田太郎氏は、95歳とは思えない力強さで以下のように訴えた。全文を編集して紹介する。



■最後の被爆医師
 自ら広島で被爆し、当時から被爆者を診つづけてきた医師は、現在日本で私一人になりました。つまり、実際に原爆を浴びた人間の外部被曝と内部被曝について、それをずっと診療し、事実を見てきた人間で生き残っているのは、私一人になったわけです。

66年間、ずっと被爆者と付き合い続けてきました。わたくしは日本被団協という団体のたったひとりの医師で、日本全国の被爆者の相談を一手に引き受けてきのです。そんなわけで、私が現在まで、聴診器をあて、相談をした被爆者は、少なくとも6000人はいます。

その中には、外部被爆を受けながら、大変な思いをして今日まで生き延びてきた方もいますし、内部被曝を受けて、説明のできない非常に困難な症状を持ちながら、世間からは被爆者として認められなくて、そのために社会から差別を受け、一人前の人間として生きていけなくなった患者もたくさんいました。

■なぜ、日本は原爆から学ばなかったのか
 最近、外国の方から、「広島と長崎で原爆を経験した日本が、なぜ地震の多い国にもかかわらず海岸に53基も原爆を作ったのか」と質問されることがよくあります。
また、日本でテレビに出演されている専門家の方々も、そういうお話をされます。しかし、「なぜそうなったのか」ということをお話される方は誰もおりません。

私は当時からずっと見てきて、この原因は、たったひとつだと思っています。それは、占領したアメリカ軍が、被爆者の病状すらも「アメリカの軍事機密だ」という声明を出したことたことにあると思っています。被爆者に対して、「一切被害についてしゃべってもいかん、書いてもいかんと言い、医師は職業柄、被爆者が来れば診療はしてもよいが、その結果を書き残したり、それを論文にして論議をしたりしてはいかん」と言いました。

このように、日本の医学界が、放射線について研究することを一切禁じ、「これに反するものは占領軍として重罪にかす」という声明を発表して以来、被爆者は沈黙を守り、医師は自分の診察した症状を記録しなくなったのです。ですから当時の被爆者が、ずっと経験してきた放射線の被害の実情は、どこにも正確に記録されていないのです。だから今の政府も今の医師も、あの当時のことを正確に学ぶ資料が全くありません。

私は世界30ヵ国ぐらい歩いて、海外の医師や学者に、内部被曝のことを話してきました。「そんな大事なことを、あなたという医師がなぜ個人でここに来て話すのか。政府が発表した資料はないのか」と聞かれます。私はこれに対して「全くありません」と答えました。
 なぜなら、「アメリカの占領が7年間続き、そのあとを受けた日本の政府が安保条約を結んで、軍事条約の手前アメリカの核兵器のことを一切記録をしない、ということになっているためできないのです」と話してきました。 

■被爆の影響はいつ起こるか
 私が福島原発事故の話を聞いて最初に思ったのは、「これは大変なことになったな」ということです。放射線そのものが、広島や長崎で使われたウラニウムとプルトニウムを混ぜ合わせた放射線ですから、福島の人たちに広島・長崎の人々が経験したのと同じことが、そのまま起こってくると考えるほうが常識なのです。

これがいつ起こるのか――。広島と長崎の経験から言うと、内部被曝による原因不明の症状が出始めたのは、ちょうど一年ぐらい経ってからでした。最初に現れ始めたのは半年後です。ですからおそらく、この3月頃から彼らの中に、医師が診ても診断のつかない非常に不思議な症状で、いろいろと苦しむ人が出てくると思います。

残念ながら、今の日本の医療界には、こうした患者を診て親切に相手のできる医師は一人もおりません。おそらく、診ても「あなたは病気ではないよ」と言って、ほっぽり出すでしょう。ちょうど、広島や長崎の被爆患者が、どの医者にかかっても、大学の医学部を受診してさえも、「あなたは病気ではない」といって追い出されたのと同じです。しかし本人は働けないくらい体が辛く、結局は「ぶらぶら病」という名前で、社会から抹殺されました。それと同じことが起こるのではないかと、私は心配しています。

■マスコミは真実を伝えてほしい
 日本は上から下まで、あの大きな被害を受けた原爆の放射線被害について、全くの無知です。なんにも知らない。広島と長崎の原爆で被害にあったことくらいは、なんとか知っているでしょうけれども、あのキノコ雲の下で人間がどのように殺され、また内部被曝によって身体の中に放射能を取り入れた人々が、その後66年間、どんな苦しい生活をしてきたか――。このことを誰も知りません。これは全部、私はアメリカの責任だと思っています。

私は、当時からアメリカの憲兵や日本の警察に追い回されながら、広島で寝ている被爆者を助けてきました。私は、別にアメリカの国民を憎いとは思っていません。しかしあの爆弾を作り、あの爆弾で最初に殺人を考えた、この連中は許すことができない。

日本は、福島の原発事故だけで終わるわけがはない。必ず次に事故が起こってきます。もう二つ、三つ事故が起これば、日本はおそらく滅亡するでしょう。そういう非常に危険な状態なのだということを、為政者は誰ひとり考えない。のんきにテレビに出てきて、「大丈夫です」などと言っている専門家などは、私は本当に軽蔑したくなります。

どうかマスコミのみなさんは、放射線の被害というものは、下手をすれば人類が生き延びることができない大変な代物だということを腹で知って、どんな小さな情報でも大事に扱っていっていただきたい、ということをお願いして私の話を終えます。

*******

 今後、「市民と科学者の内部被爆問題研究会」では、海外の研究者たちとも連携をはかり、これまで公にされてこなかった内部被爆の実態を明らかにしていく予定だという。
政治都合で動く御用学者の発表を、うのみにする時代は終わった。私たち市民の立場から「真実」を探究し、被爆に苦しむ人々をひとりでも軽減できる会に成長してほしいと思う。

2011年12月25日日曜日

舞い上がり土埃とセシウム花粉飛散による内部被爆対策カップマスク・カッパ支援について

いわき市在住の方から、子どもたちをセシウム花粉の飛散から守るための呼びかけ依頼をいただきました。

なんでも、いわき市を含む浜通地区は、日本一の杉花粉飛散地域なのだそうです。(農水省発表)
また今年は、放射能汚染された“セシウム花粉”が飛散することが予測されており、呼吸による内部被爆が心配されています。

これを防ぐためには2~5月の花粉飛散時期に、“カップマスク”や“カッパ”などで防御する必要があります。本来ならば、教育機関がこれを呼びかけなくてはならないのですが、残念ながら現在のところ動き出す気配はないということです。

市民が呼びかけた結果、ユニチャームが「資金面での援助を受けられれば、カップマスクなどの支援をする」とおっしゃっているそうです。

つきましては、皆さまのご支援と呼びかけ・拡散を、どうぞよろしくお願いいたします。


*****詳細は、以下呼びかけ人の方のブログをご参照ください*****


舞い上がり土ぼこりとセシウム花粉飛散による内部被爆対策カップ・マスク、カッパ支援について

2011年12月24日土曜日

1月7日(土)に、神戸で『From 3.11福島の今を知ろう』という講演会を開催します


私の地元は、神戸です。

実際に、被災地から距離が離れるほど、“原発”“放射能被害”に対する危機感が薄なあ、と実家に帰るたびに痛感していました。

そこで来年の1月7日に、福島市で高校の教員をしていらっしゃる赤城修司先生をお招きして、『From 3.11福島の今を知ろう』という講演会を開催することにしました。

福島市といえば、今現在も空間線量が1マイクロシーベルト/毎時を超えるような高線量地域が多く、チェルノブイリなら、“移住の義務ゾーン”“移住の権利ゾーン”に相当しているエリアです。

赤城先生は、そのような高線量地域にある高校の教員をされていて、3.11以降からずっと、子どもたちの様子やご自身の生活を記録しておられました。

その膨大な資料をもとに、3.11以降、赤城先生が実際に見て、聞いて、感じたことを中心に時系列でお話していただく予定です。

以下、チラシとなっておりますので、関西方面にお住まいの方は、ぜひご家族、ご友人お誘い合わせの上ご来場ください!

今、福島で起こっていることは、決して他人事ではありません。もし万が一、あなたがお住まいの近所の原発が爆発したら…、あなたの身にも同様のことが起こると思います。
現実を知り、「今できること」を考え、アクションにつなげましょう。




2011年12月21日水曜日

わたり土湯ぽかぽかプロジェクト始動!

「中通り」と呼ばれる福島市の渡利地区は、年間20mSvにもおよぶ高い放射線量があります。しかし近くに県庁があり、いわば「福島の心臓部」であるため、本来ならば“特定避難勧奨地点”に指定されるべきエリアであるにもかかわらず、放置され続けている現状です。
例えば、南相馬市や伊達市では、勧奨地点指定基準を独自に以下のように設けています。特に注目すべきは「子ども・妊婦基準」で、南相馬の場合、地上から50センチ高で計測して2.0μSv/hであれば避難の権利を得られるのです。しかし、福島市では「子ども・妊婦基準」すら設けておらず、2.0μSv/hで“除染”という尻すぼみの内容となっています。





渡利地区は住宅地のため、多くの子どもや妊婦さんが生活しています。「避難したいけど、仕事や経済的な理由で避難できない」という世帯も多く、今この瞬間も、高い放射線の中で生活を余儀なくされているのが実情です。
セーブわたりキッズ、子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク、フクロウの会、FoE Japanなどの団体は、この9ヶ月間政府に“避難の権利”を求めて交渉を続けてきましたが、いっこうに動かないため、今回「わたりぽかぽか土湯プロジェクト」を始動することになりました。
これは、渡利から自動車で30分くらいの場所にある土湯温泉の旅館に、渡利の子どもたちや親子に滞在してもらい、放射線量の低い地域で思いっきり羽を伸ばしてもらおうというもの。土湯温泉は、空間線量は毎時0.10.2マイクロシーベルトと低く、渡利の10分の1から20分の1だということです。

このプロジェクトを成功させるには、日本中の皆さんの協力が必要とされています。
下記にて寄付を受け付けておりますので、ぜひご協力ください。




詳しくはコチラ

もちろん今後も、政府には避難の避難勧奨地点の指定を求めつつ、並行してこうした保養プロジェクトを推進していくということです


※渡利地区についての詳細は、OurPlanetTVをご覧下さい
『なぜ避難勧奨地点にならないのか!? ~苦悩する福島市渡利地区』
http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/1281

2011年11月22日火曜日

11月22日発売(12月7日号)の婦人公論に、山本太郎さんと野呂美加さんの対談を書かせていただきました

ながらく、こちらのブログを更新しておらず、すみません…。

このたび11月22日発売(12月7日号)の婦人公論に、山本太郎さんと野呂美加さんの対談を書かせていただきました。
ぜひ皆さんにご一読していただければ幸いです。

http://www.fujinkoron.jp/

ご存じの方も多いと思うのですが、俳優の山本太郎さんは今、自主避難の権利すら認められていない福島の高線量地域に住む子供たちを守ろうと、各地で活動を続けています。

また、野呂美加さんは、「チェルノブイリへのかけはし」というNPO団体の代表で、20年にわたってチェルノブイリ原発事故の被害を受けた子供たちの保養支援を行ってきた方です。

おふたりとも、福島はもちろん日本全国をかけまわり、チェルノブイリと同じ轍を踏まないようにと講演会を行っています。

そんな熱い思いを持ったおふたりに、「ぜひ対談をしてほしい!」と思い、このたびやっと実現しました。

福島が、そして日本が、チェルノブイリのような被害を出さないためには、今こそチェルノブイリに学び、予防原則にたって対処する必要があると思います。

少しくらい「大げさ」だと思われてもいい。あとで、「あんなに心配してバカみたいだったね」と笑えるならいい。

でも、「あのとき、どうして行動しなかったのだろう」と、後悔するのだけは避けたい。

もちろん、リスクは放射能だけではありません。故郷を離れるリスク、仕事を失うリスク…。その他たくさんのリスクと天秤にかけて、「どちらかを選択」しなくてはならないのです。つまり究極の選択です。

何を選択するかは、この民主主義の日本において“自由”です。
当時のソ連のように、無理矢理移住させられることはありません。

でも、日本に本当の意味の“自由”はありません。

「本当は避難したい。でも、ローンも仕事もあるから逃げられない」
「年老いた親を残して、離れるわけにはいかない」
「自分だけ避難したら、裏切り者と言われる」

小さな子供を持つ親でも、そんな引き裂かれるような気持ちで、福島にとどまっている人たちが多くいると思います。

それぞれの選択は尊重されるべきだと思いますが、せめて「避難したくなったらいつでもできる」環境を整えておくことは必要です。

「なんの非もない人たちを、危険かもしれない土地にほうっておくなよ」
「補償しろよ」

それは県外の人間だからこそ、言えることかもしれません。

だから、やっぱりお節介だと言われても、余計なことをするなと言われても、風評被害を拡大しているとののしられても、声をあげ続けているおふたりのような存在はとっても貴重だと思うんです。

表には出ないけど、おふたりのように活動している多くの人たちも、きっと勇気をもらっていると思うから。